今日の夕食のために、久々に弁当屋へ行きました。
 大体、夕食は家で食べてるんですけども、今日は帰りが遅く
なったせいもあって、家で作るのが面倒くさいのでお弁当を
買ってみようと思いまして。

 いざ弁当屋に行ってみて、メニューを見てみる。店先にある
のぼりには「生姜焼き弁当390円」の文字が。元々、生姜焼きに
目がない私としてはこれはまさに吉報。もう頭の中は生姜焼きで
いかにご飯をいっぱい食べるかというシミュレーションが流れる
わけです。素晴らしき哉、生姜焼き。

 もうそんな感じで頭の中は「生姜焼き」を食べる気100%だった
わけなんですけども、店に入ってみて改めてメニューを見ると
「おろしチキン竜田弁当390円」と出てる。そうしたら、一瞬の隙を
突いてチキン竜田が食欲を占領しまして。気が付いたら、チキン竜田の
弁当を提げて家路についているといった有様です。

 でも、歩いているうちに「生姜焼き美味しそうだったなぁ……」
なんて後悔を始めてしまってるわけなんですよ。自分でそっちを
選んでおきながら。自分の決定に自分自身納得していないんだろうから。
 以前、大学の学食でも同じようなことやっていたんです。自分では
メンチカツなりカレーなり、自分で「食べたいなぁ」と思って頼んだ
メニューなのに、実際に他の人が自分とは違うメニュー食べているのを
見かけると「あっちの方が美味しそうだなぁ、失敗したな……」って
思ってしまう悪い癖が。自分が選んだのも、当然美味しいんですよ。
それなのに他人のが美味しそうに見えて、自分がどうも損した気分になる。
自分自身、参ってます。

 こういうこと、一事が万事、そうなんだろうな。
 直さなきゃいけないんだけど。友達からも「隣の芝は必ず青く
見えるもんだよ」と言われるけども、羨ましく見えてしまう。
とても自分が損してるような感じになる。
 こんな性格してる自分って、すごく嫌。でも、どうやったら直せる
んだろう。
 先日、ネットでそんなコラムを見ました。

何もしない人ほど批判精神ばかりを育てて人生を孤独にする
傾向があるのです。
 批判ばかりがクセになると、自分の小さな行動に対しても
「くだらない」「意味がない」と自分に対しても批判精神は
向いてしまい、自分の前向きなエネルギーまでもが枯渇します。


 根底にあるのは劣等意識。「どうせ私(僕)なんて……」と
いう意識が心の底にあるうちは、良い所に目が行かず、細かい
欠点やマイナス面ばかりに目が行って、批判することにばかり
意識が向いてしまうというものです。
 劣等意識が強いから、自分のことをバカにされないように
必死で自分自身を守る。「自分の方が凄いんだ、偉いんだ!」
と批評をしていないと、自分自身が保てなくなってしまう。
 そんなこと、身に覚えはありませんか?


 例えば、映画の批評文ばかりを見て、舞台が悪いとか流れが
問題とか、退屈と苛立ちにアグラをかいて批判するより、一生
懸命作っている人達の方が人生を楽しんでいるし、心からの
友達も多いはずなのに。


 ……その通りだと思います。
 僕もこの日記上で批評文とか書いていますけどもねぇ……。
ネットというか、このブログが出来るようになってから、
一気に「評論家」めいたことが出来るようになったんだと
思いますよ。日常思ってることを簡単に公開できるし。
 簡単に公開できるからこそ、言葉もその分軽くなってしまう
二面性もあるわけなんですけども。
 自戒していかないといけないな。
 かなり右半身を中心に筋肉痛です。
 特に右肩が。普段運動していないツケがたたっているんですが。
お祭りの掛け持ち出演終わりました。「出演」なんて大層なこと
書いていますけども、実際には僕が勝手に出しゃばっているだけ。
よくもまぁ、強制退場させられなかったものだ、と。

 でもって、出番が終わってから何気なく「今日どうだった?」
なんて話をしていたら、「水瀬くん、無駄な動きが多かったよ」
とのお言葉が。
 「無駄な動き?」と言われて頭の中に思い当たる節が。
確かに、踊りで曖昧に覚えてる部分はなんだかんだで動きを大きく
して適当にごまかしていたっけ……。
 そんなことを話してみると、「正解」と言わんばかりの表情。
まぁ、オーバーアクションで見ていて微妙に面白かったとのこと。
……そんなところで笑いとってもなぁ。

 「市民おどり」でのことに象徴されてるわけでもないんで
しょうけど、僕がやることってのはとにかく無駄が多いです。
文章もこうやって長く書いてますけども、大部分無駄です。
……というか、この日記自体「無駄の産物」です。現実に、
とある人に「水瀬にとって、この日記は無駄だ。書くのを止めろ」と
面と向かって言われたこともありますし。仕事とか趣味とか
行動とか体の脂肪とか、全てにおいて無駄なものだらけです。

 まぁ、他から見れば案外無駄でないところもある「らしい」ので、
その辺はまだ救われてるのかもしれませんけどね。

 人が言うには、「無駄が多いのは、努力が足りない証拠」。
 本が言うには、「ポジティブな思考が、貴方から無駄を無くす」。

 ……本当なんだろうか。
 ポジティブ・シンキングがどうにも好きじゃない僕はその辺り
とても懐疑的なんですが。
「悩んでるより、行動しろ」と。そりゃごもっとも。
 前に進むしか、無駄を無くす方法はないんだよな、おそらくは。
 以前みたいな自殺願望みたいなものは、もう大分小さくなって
きているんですが、相変わらず自殺をテーマにした本を読んで
いたりします。全くその言葉から離れるというのもいいんで
しょうけど、少しばかり「興味」を持ってしまったので。
 「自殺に興味」なんて書くと、マジで引かれてしまうような
気もするんですが、なんていうか……自分がなったせいもあって
解説本などから「あの時の自分はどんな感じだったのか」という
ものを客観的に見てみたいなぁと思いまして。

 こないだも、ある友人から「死にたい気持ちが膨らんできて、
なくならない……」という電話がありました。前にも何度か、
そういった形で助けを求めるような電話やメールがあったことも
あり、今回もゆっくりじっくり話を聞こうということに。

 恋愛のこととか、仕事のことでかなり悩みを抱えてしまって
いるみたいで、一度話し出すともう次から次へと言葉が出てくる
ようで、トーンは低くても、ずっと流れるようにあれもこれもと
電話の向こうの僕に向かっていろいろ言葉をかけてきました。
 ただ、どうあっても「死にたい気持ち」っていうのが抜けない
らしくて、本当に毎日「死にたい」って思いながら生きている
そんな状態なんだそうです。

 僕は、こう言葉を返しました。
 「死にたいって思うことは別に悪い事じゃないよ」と。
 自殺したいって気持ちにずっと悩まされていた頃からずっと
考えていることなんですが、「自殺したい」って思うこと
それ自体は「悪いこと」ではないと思っているんですよ。
一応、日本には「思想・良心の自由」ってのがあるわけだし。
ただ、思うことと実行することはまた別物です。生きていた方が
辛いなら、さっさと死んでしまえばいいとは言いませんけども、
「生きることも死ぬこともできない」っていう心理状態よりは、
「まだ、私は『死ぬ』という逃げる余地がある」と心のどこかで
感じていた方がまだ楽なような気がするんですよ。
 以前、青酸カリ入りのカプセルを「お守り」としてネットで
販売して、実際に人が死んでしまったという事件がありましたが、
あれも「これさえあれば……」という感じで薬の実効的な薬理
作用よりも、精神的な充足感を得るという目的の方が大きかった
のではないかなぁと思ってます。現にそういう論説をした本も
多く出版されているようですし。

 で、さらに言うのはこんなことでした。
 「でもさ、死ぬのなんていつでも出来るんだし。そうやって、
『死に急ぐ』こともないんじゃないのかなー?」ってこと。
 まぁ、確かに死ぬ事なんていつでも出来るんですよ。本当。
それこそ、今すぐにでもロープとちょっとした高低差があれば。
だからこそ「いつでも出来るんだし、もっと後でもいいんじゃ
ないのかな?」と思うわけですよ。それで、結果的に心が楽に
なって、自殺するのを回避できれば万々歳です。そこからもっと
心の重荷を軽くするような方法を用いていけばいいんですから。

 死ぬことはいつでも出来るんだから、まぁ、死に急ぐことは
ないんですよね、本当に。
 貞子って言っても、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんの
ことです。こないだ、BSの討論番組に出ていたのを見かけた
んですが、そこでこんなやりとりがあったそうです。

司会者:「派遣される自衛隊員に危険はないでしょうか?」

緒方:「皆さん、自衛隊員の身の安全は心配されても、
    民間人として活動されている人達のことは心配されて
    いないようですね」

司会者:「そうではありませんが……」

 なんだか、このやりとりを見ると、そりゃそうだよなぁと
思ってしまいました。自衛隊員は大丈夫かってことはそれこそ
毎日報道されるけども、民間人としてイラクに行って、
取材なり救援活動やってる人達のことはほとんど俎上に登って
こないもんなぁ。そういうのを見てると「日本人のことだけ
心配してるんじゃないの?」って言われても仕方ないような
気がする。日本の自衛隊員派遣に反対するならば、イギリスや
オランダや韓国の派兵にも反対しなきゃいけないはずなのに。

 まー、なんていうか、海外で飛行機が墜落しても、犠牲者に
日本人がいるかいないかを真っ先に報道して、いないのであれば
「乗客に日本人はいませんでした」で終わらせるんだもんな。
 学校の歴史の時間はいつも古代から始まっていた。人類発祥
から四大文明、ギリシャ・ローマ、中世、ルネサンス、産業革命、
フランス革命、近代帝国主義と、実に多くのことを僕は学んで
きた。世界史・日本史は受験に使わなかったけども、それだけの
理由で切り捨てられるほど僕の頭は合理的には出来ていなかった。
何故だかよく分からないけども、「社会科」という教科には強く
惹かれていた。
 今にして思えば「自分が今いるこの時代には、どういう道のりを
辿ってやってきたんだろうか」という素朴な疑問が、ずっと心の
中に深く沈殿していたからなんじゃないだろうかと。

 ただ、僕がそうやって「今いる自分の世界」へ向かって勉強
していても、学校の授業はせいぜい近代で終わってしまう。学校の
時間割の関係もあるし「受験に出ない所をやっても……」という意
見があるのも十分分かる。でも、僕はそんな風に明治・大正・昭和
の部分を削ってしまってるのは「なんだかなぁ」って思ってます。
 
 学校の授業で現代史、つまり大正・昭和を扱わない大きな理由と
して、「現代史はまだ歴史的な評価が定まっていない」というのが
あるんだそうです。聖徳太子や源氏と平氏、織田信長・豊臣秀吉・
徳川家康なんて物凄く細かく「これでもか」ってくらいに勉強
するのに、明治に入ると急にトーンダウン。大正・昭和なんて
ノータッチ。それらの前段を抜かしておいて、今僕らは「平成」
って世の中に生きているわけで。頭の中で歴史がプッツリ断ち
切られて、そのまま現代に放り出されてしまっているそんな状態。

 「歴史とは解釈だ」と、高校の世界史の先生は言っていた。
 何百年も前の出来事ならば、その背景や経過などからいかよう
にでも解釈できるし説明もできる。ただ、現代史にはそのための
「材料」が決定的に不足している。それは「解釈のための時間」
なんだとか。出来事を分析し解釈するということには、「解釈でき
るようになるための時間経過」というのが必要だと。
 要するに「今じゃなくて、後で考えさせて下さい」ってこと。

 ただ、やっぱり平成の時代を生きる僕は、少なくとも「大正・
昭和」という時代がどういう世界だったのかを知りたかった。
そうでないと、「なぜ、自衛隊という存在があるのか」とか、
「なぜ、北朝鮮は日本をあれほどまでに敵視するのか」とか
「なぜ、東側ではなく西側を選んだのか」とか
「なぜ、イラクに自衛隊を出すことになったのか」という数々の
疑問に答えが出せないからだった。
 今でも左右いろいろな考えの人達がこれらの問題について論戦を
戦わせている。あの中に正解があるのかもしれないけど、僕は
きっと100%これが正しい事実のみを述べているものなんてない
と思う。絶対に「見たくないもの」は自分の口で述べてないんだ。
戦前の日本軍は野蛮でとんでもない連中だったのかもしれない。
アジア全域で相当恐ろしいことをやったのは、おそらく事実だろう。
ただ、日本軍全体がそんな鬼畜生の集まりだったとは到底思えない。
少なくとも、日本軍が出ていったことによってなにがしかのプラス
面はあったんだろうと思うことは、100%間違いではないはずだ。
左右両方とも「見たくない物」は隠している。その中身を僕は
知りたいとずっと思っている。

 まだ歴史の評価が定まらないうちに、これらについて意見を
述べることは、自分の思想や立場を明らかにするのが恐ろしいからだ……ととある本に書いてあった。結局の所、昭和史を語らない
のはこれがあるからなんだろう。昭和史を批判めいた文章で書き
殴る人達がどうも僕の目に胡散臭く見えるのは、このことを全く
知らずに書いているのか、もしくは敢えて無視して書いているか。
どちらかだろう。

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