噴水

2003年6月15日
 大学生の頃、気分が落ち込むとよく大通公園まで行って
日がな一日ぼんやりと噴水を見つめていた。晴れの日、
曇りの日、小雨の日、よほどの大荒れでもない限りは、
大体見に行っていたと思う。もちろん、大通公園の噴水なんて
数え切れないくらい目にしているのだが、「長時間に渡って
ぼんやりと噴水を眺める」というのは気分が落ち込んだ時にしかやっていない。
2度目の失恋の時もそうだった。(1回目の時は冬だったので、
噴水はやっていなかったから)

 別に何もするわけでなく、ただただ噴水を眺めながら、
缶コーヒー片手に一人じっと考えに耽る。不思議とあの噴水の
動きと水音が考えをどんどん加速させながらも、同時に
心の内面を落ち着けていくのだ。これは不思議だなぁ、と思っている。
 眺める場所は決まって、噴水のすぐ外周にある円形のベンチ。
目の前数十センチはすぐ水面だ。ここに座って、いろいろな思いを
巡らせているわけで。だから、「噴水の周りに座る」という時は
決まって気分が塞がっている時。逆に、気分が晴れやかな時になんて
噴水のそばにただ黙って座っていることなんてできやしない。

 今日、ふと大通公園を通ったら、また噴水が視界に入った。
強烈な空の青と、公園の緑と、噴水の白のコントラストが
とても印象に残った。そうだ、あの時のようにまた噴水に
行ってみようかと思った。

 あの時と同じように噴水の脇のベンチに腰を下ろす。
やっていることはあの時と同じだ。目の前の噴水もあの時と同じ。
ただ、僕の状況だけがホンの少しだけ変わっている。
あの時は、大学生だった。今は、少なくとも形だけでは社会人だ。
あの頃から何か僕は変わっただろうか? あの時と同じように
噴水の脇に腰掛けている僕は、少しでも成長しているだろうか?
むしろあの時よりもいろいろな意味で「諦めが良く」なってやしないか。
「失うもの」をあの時よりも多く抱えているのは確かだけど。

 なんだか、不意に大学の頃が懐かしくなった。戻りたいなぁ、と
思ったとしてもそれは不可能だということは痛いほど分かっていても。

 さて、僕はこれから後、何回この噴水の脇に腰かけるんだろうか。
多い方が良いのか、少ない方が良いのか、僕にはよく分からない。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索