知り合いとたまにそんな話をします。
 大学の時にそんな話をしていたせいもあってか、お互い社会人に
なった今でも、時々メールでそんな話をしていたりします。
まぁ、自殺だのリスカだの多重人格だのという関係の話とかは
「まっとうな大学生」の話題ではないらしいですから、
僕らの大学生活ってのはそんな意味では手一杯ねじれていたわけで。

 で。
 あの頃から「死にたいってどういうことなんだろうね」なんて
全く非生産的なことを考えておりまして。その当時の僕は
時折「死にたい」なんてことを口走る人間でしたけど、
その知り合いは特にそういったことはない人でした。
その割にはその方面での話が良くできた人だったのですが。

 比較的若い人が「死にたい」とかなんとか口走る背景には
一体何があるんだろうということで、関連書籍やネットを
読み漁ってみました。何か見えてこないだろうかなってことで。
 原因はいろいろあるようなのですが、すこし気になったのは
「死にたい」ってメッセージを送る人には、割と「消えたい」って
言葉も同時に表現しているということでした。はて、
こういうことを言う人は「死にたい」んだろうか、「消えたい」の
だろうか、と。
 自殺する人にはいろいろな悩みがあります。身体的なことだったり、
経済的なことだったり、人間関係だったり、本当にいろいろ。
その中で、精神的なストレスや心境のほんの微妙な線から
思い悩んで死を選ぶ人もいます。そんな人の言葉を聞くと、
「これ以上、自分が存在しているのが耐えられない。
自分が嫌でたまらない。消えたい……」と。ネットの掲示板に
ある書き込みでも「消えたいです」というものが結構あります。

 「死にたい」けど、醜く死んでいくのは嫌だ。同じ死ぬなら、
綺麗に死んでいきたい。出来ることならば、霞の中に
溶け込むように自分自身がふっ……と消えていきたい。
そういうのが理想なのだろうということで話は進んでいきました。
 お湯を張った浴槽に入れた手首に刃を当てると、お湯が
どんどんと赤く染まっていく。薄らいでいく意識の中、
赤く染まる浴槽を見つめながら、ゆっくりと死の淵へと
沈んでいく……といったある種耽美的なイメージがその手段を
とらせる一つの要因になっているんじゃないだろうか、とも。
(前にも書きましたが、実際の所リスカでは死ねないんだそうです。)

 「死にたい」。でも、醜く死んでいくのではなく、
綺麗に「消えて」いきたい。でも、そんな風に死ねる手段がない。
近頃話題になった「練炭自殺」も実際には未遂がとても多い。
どうしよう……と思い悩んでる人が世の中には大勢いるそうです。
 すり鉢に投げ込まれたビー玉のようにぐるぐると思いを
巡らせて、一生懸命にそこから抜けだそうと足掻いても、
重力に引き寄せられてついにはすり鉢の底へと落ち込んでいってしまう。

 そういう話を聞く度に、なんとかしてあげたいんだけど……
とは思うものの、実際には何も出来ない自分がかなりもどかしい。
ボランティアか何かの形で関わってはいけないだろうかと、
そんなことを最近考えています。

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